スポーツ・シンデレラ物語〜冬季オリンピック特集3
北沢欣浩 きたざわよしひろ[日本]
スピードスケート
私のもっとも古い記憶のオリンピックは、1984年サラエボです。当時小学校二年生、運動することが大の苦手だった私はオリンピックを「テレビで何か特別なことをやっている」程度にしか考えていませんでした。もっともインターネットや衛星放送がなかった当時、世間でもオリンピックを一日中楽しむという環境ではなく、特に冬季オリンピックは日本人が活躍しそうな競技を、NHK総合でのみ中継するといったローカルな大会でした。
それでも、私の周りもテレビでも、この大会のスピードスケート男子500mは別格の存在でした。「日本人がスケートで初めてメダルが取れるかもしれない」という雰囲気。その何ともいえない高揚感を幼心ながら感じ取っていました。
スピードスケート男子500mは、以前から日本のメダル有望種目と言われてきました。古くは初出場であと一歩でメダリストとなれなかった1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンの石原省三、1964年インスブルックと1968年グルノーブルの鈴木恵一、1972年札幌の肥田隆行などなど。けれど、予選もなく一発勝負だった当時のこの種目は、不利なアウトレーンとなった不運や、当日の天候、体調などの影響。さらには外国勢の攻勢などでメダルを逃し続けました。
それが前年の世界選手権で金メダルを獲得した黒岩彰の登場で「オリンピックも金メダルにいける!」という空気になっていきます。冬季オリンピック全体でも入賞でビッグニュースだった当時、黒岩の存在はなによりの広告塔だったのです。しかも名門、専修大学のエース。マスコミは連日「黒岩メダルいけるぞ!」という記事を書き立て、黒岩を追いかけ回していました。対する黒岩側もマスコミ対策を知らなかったこともあり、それは気苦労な毎日が続きました。
ひるがえってこの物語の主人公、北沢欣浩は当時、法政大学の3年生。それほどスケート部が名門ではなかったため、自分で練習を組み立てる毎日でした。それが1983年の真駒内選抜大会で4位、続く浅間選抜大会で、同走の黒岩にあと一歩まで追いつめる2位まで急上昇、オリンピック代表に選ばれたのです。それでも黒岩一人への注目は変わらず、一人練習に打ち込む北沢の姿はマスコミに報じられることがありませんでした。
1984年2月10日、サラエボオリンピック、スピードスケート男子500m当日。
前日からの吹雪は止まず、屋外リンクだったスピードスケート会場は、数十mさきも見えないありさまでした。現地時間11時開始予定だった競技は16時30分開始に延期。その開始時間になっても、雪は降り続けました。
4組目、黒岩のスタート。いつものスピードが出ません。フィニッシュは5位。テレビからは「黒岩、メダルの希望がなくなりました!」という実況。幼い私でも大変なことが起こったという動揺が伝わってきたのを覚えています。
日本中ががっくり肩を落とした黒岩のレースを、北沢は現地で見ていませんでした。この時彼は、今までの人生で感じたこともなかった「ドーン」とくる緊張感と一人闘っていたのです。ようやく足の震えが落ち着いた第5組、北沢のスタート。バックストレート、日本のコーチから「いけるぞ!」の声が聞こえました。北沢本人は、逆に身体が浮かないよう、自らを押さえていたといいます。
フィニッシュ直後、電光掲示板は雪でよく見えませんでした。ぼんやりしていると、コーチが彼を抱きかかえます。記録は38秒30で2位、その後も北沢のタイムをしのぐ選手は出ず。日本初のスピードスケートメダリストが誕生しました。
黒岩の敗退で落胆していた時にやってきた願ってもない銀メダル。日本中の視聴者も、そして本人までもがきつねにつままれたような瞬間だったのかもしれません。
翌年大学を卒業した北沢は釧路市役所に就職。競技も継続していましたが、1988年の引退後はスケート界の表舞台にはいっさい顔を出さず、地元の子どもたちにスケートの楽しさを教え続けていました。そのリポートをニュースでたまに観ることがありましたが、そこにはアスリートの顔はなく、一人のスケーターとしての優しさが見えました。
1998年長野オリンピック、男子500mで清水宏保が金メダルを獲得。そのテレビ中継の解説者席で、北沢は解説の仕事を忘れ、日本初の金メダルに絶叫した姿がありました。
参考文献:「頂上の記憶」 阿部珠樹 文藝春秋 1993
次回はフィギュアスケート、骨肉の争いに咲いた一輪の花です。
スピードスケート
私のもっとも古い記憶のオリンピックは、1984年サラエボです。当時小学校二年生、運動することが大の苦手だった私はオリンピックを「テレビで何か特別なことをやっている」程度にしか考えていませんでした。もっともインターネットや衛星放送がなかった当時、世間でもオリンピックを一日中楽しむという環境ではなく、特に冬季オリンピックは日本人が活躍しそうな競技を、NHK総合でのみ中継するといったローカルな大会でした。
それでも、私の周りもテレビでも、この大会のスピードスケート男子500mは別格の存在でした。「日本人がスケートで初めてメダルが取れるかもしれない」という雰囲気。その何ともいえない高揚感を幼心ながら感じ取っていました。
スピードスケート男子500mは、以前から日本のメダル有望種目と言われてきました。古くは初出場であと一歩でメダリストとなれなかった1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンの石原省三、1964年インスブルックと1968年グルノーブルの鈴木恵一、1972年札幌の肥田隆行などなど。けれど、予選もなく一発勝負だった当時のこの種目は、不利なアウトレーンとなった不運や、当日の天候、体調などの影響。さらには外国勢の攻勢などでメダルを逃し続けました。
それが前年の世界選手権で金メダルを獲得した黒岩彰の登場で「オリンピックも金メダルにいける!」という空気になっていきます。冬季オリンピック全体でも入賞でビッグニュースだった当時、黒岩の存在はなによりの広告塔だったのです。しかも名門、専修大学のエース。マスコミは連日「黒岩メダルいけるぞ!」という記事を書き立て、黒岩を追いかけ回していました。対する黒岩側もマスコミ対策を知らなかったこともあり、それは気苦労な毎日が続きました。
ひるがえってこの物語の主人公、北沢欣浩は当時、法政大学の3年生。それほどスケート部が名門ではなかったため、自分で練習を組み立てる毎日でした。それが1983年の真駒内選抜大会で4位、続く浅間選抜大会で、同走の黒岩にあと一歩まで追いつめる2位まで急上昇、オリンピック代表に選ばれたのです。それでも黒岩一人への注目は変わらず、一人練習に打ち込む北沢の姿はマスコミに報じられることがありませんでした。
1984年2月10日、サラエボオリンピック、スピードスケート男子500m当日。
前日からの吹雪は止まず、屋外リンクだったスピードスケート会場は、数十mさきも見えないありさまでした。現地時間11時開始予定だった競技は16時30分開始に延期。その開始時間になっても、雪は降り続けました。
4組目、黒岩のスタート。いつものスピードが出ません。フィニッシュは5位。テレビからは「黒岩、メダルの希望がなくなりました!」という実況。幼い私でも大変なことが起こったという動揺が伝わってきたのを覚えています。
日本中ががっくり肩を落とした黒岩のレースを、北沢は現地で見ていませんでした。この時彼は、今までの人生で感じたこともなかった「ドーン」とくる緊張感と一人闘っていたのです。ようやく足の震えが落ち着いた第5組、北沢のスタート。バックストレート、日本のコーチから「いけるぞ!」の声が聞こえました。北沢本人は、逆に身体が浮かないよう、自らを押さえていたといいます。
フィニッシュ直後、電光掲示板は雪でよく見えませんでした。ぼんやりしていると、コーチが彼を抱きかかえます。記録は38秒30で2位、その後も北沢のタイムをしのぐ選手は出ず。日本初のスピードスケートメダリストが誕生しました。
黒岩の敗退で落胆していた時にやってきた願ってもない銀メダル。日本中の視聴者も、そして本人までもがきつねにつままれたような瞬間だったのかもしれません。
翌年大学を卒業した北沢は釧路市役所に就職。競技も継続していましたが、1988年の引退後はスケート界の表舞台にはいっさい顔を出さず、地元の子どもたちにスケートの楽しさを教え続けていました。そのリポートをニュースでたまに観ることがありましたが、そこにはアスリートの顔はなく、一人のスケーターとしての優しさが見えました。
1998年長野オリンピック、男子500mで清水宏保が金メダルを獲得。そのテレビ中継の解説者席で、北沢は解説の仕事を忘れ、日本初の金メダルに絶叫した姿がありました。
参考文献:「頂上の記憶」 阿部珠樹 文藝春秋 1993
次回はフィギュアスケート、骨肉の争いに咲いた一輪の花です。












